萌えは死んだか?

昨今、普通の(本当に普通の)TV番組でも「萌え」と言う言葉が聞かれるような社会となってきているわけだが、「萌え」が何かを分かって使っている番組(或いは人間)はそんなに居ないように思える。


とすると「じゃあ『萌え』って何よ?」となるが
「わからん」
と言うのが私の回答である。
これは別に私が無責任なわけではなく(突っ込まれれば否定できないが)、そもそも「萌え」の実体が不明瞭と言うか、つかみにくいものになってしまっているのが原因である。


「萌え」の語源を何処に求めるにせよ、そもそもの発端は、漫画などの作中の人物に対する、擬似的な(本気でも良いけれども)恋愛感情を表現する言葉であったと私は考えている。
だが、時代を経るにつれて、その意味合いが私も前に述べた「人物外見の嗜好の分類表示」的なものから、単純な「嗜好の分類」へと変遷し、最終的には、以前日記のコメントにも頂いたような、「ヲタ的なものを括る言葉」へとたどり着いた。
ここで、「萌え」と言う言葉は妖怪になってしまった。


古来、人々は「よく分からないもの」に具体的な名称をつけ、妖怪として恐れ敬っていたわけであるが、これと同じようなことが「萌え」に対しても行われた、つまり、「よくわからんが、ヲタっぽいから『萌え』なのだろう」となってしまったのである(恐れ敬っているかは別として)。
そして、萌えと言う言葉は、雑多な意味合いを含んでしまった。元来の「擬似的恋愛感情」と言う意味から、現在の「ヲタっぽいもの全般」と言う意味まで含んでしまった「萌え」は、同じ妖怪が別の名前で呼ばれるように、また、個別の妖怪が似た名前で呼ばれてしまうように、その時々によって意味合いを変化させるものになった。結果、元来の使用者であったヲタ自身、それが何であったか分からなくなってしまったのが現在の状況だと、私は考える。


で、別に私は結論的に「萌え」の語義の再定義というか、復権を意図しているわけではない。
ただ、「萌え」と言う言葉の意味合いが広くなりすぎて、例えヲタに答えを聞いたところで画一的な答えが返ってくるものではない、とどれだけ見てるかわからん一般の方々に申し上げたいだけなのである。