違和感

こう、韓国とか中国とかの問題を引き合いに出したときに、擁護として「確かに全体はそうかも知れないが、個人個人は違うんです」と言う論があるが、そう言う論に対してもの凄い違和感を感じる。


ずっとこの違和感の正体がわからなかったのだが、つい先日思い出した。
俺が通っていた中学では、校外活動の度に「お前達のうち、誰か一人の行動が○○中学全体として見られる。それを絶対に忘れるな」と、上の論と真逆の事を言われ続けていたからだと思う。
実際がとこ、例えば俺がドイツに旅行に行って、もの凄い粗相をしたとしよう。その場合、ドイツの人は「日本のたままるが酷いことをした!」と思うだろうか。普通は「日本人が酷いことをした」と言う認識なんではなかろうか。で、そこで俺以外の日本人の知り合いが居るドイツ人が憤慨するドイツ人に対して「いやいや、たままるは確かに酷いことをしたかもしれんが、俺の知っている日本人はそんなことないぞ。一部を全体としてとらえるのはやめれ」とか言っても実は何の意味もない。だって憤慨しているドイツ人が見たのは俺なんだから。それに擁護派のドイツ人が見たのは「一部」でしかないまともな日本人なわけで、それを根拠に全体を語ってしまうと、自分の出した前提条件を自ら否定することになりはしまいか。そう言った面で上記のような擁護論は俺としては眉をひそめざるを得ないんである。